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♪元々本が好きで文章も書くのが好きになりました。 何か伝わればと…
 
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 ・学生生活  学生生活の記録
 ・Dream is Power 2005  Dream is Power 好きな言葉
 
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"学生生活 2005 ! "
学生生活 2005春
 すべてのエネルギーとお金を山に費やしてきた。
「その年齢になると、普通は老後の心配をするものだけど、どうなってんの?」と息子に冷ややかに問われ、内心うろたえながら「大丈夫よ、なんとかなる」と答えた。しかし、何とも成りようがなく働き続けるしかないのだ。物価の高い日本に住めないなら、安い国で暮らせばよい。その国で仕事ができればなおよい。シニアボランティアという手もある。要は自分の口を賄えればそれでよし。

日本語教師になるのと英語を学ぶことが最適に思え、日本語教師課程のある大学の英文科に入学した。二部の社会人入学で試験がなく仕事も続けられる。喜んで息子に伝えると「そんな人を試験してどうする。老後の貯金をしたほうがまだましだ」とにべもない。「だいたいにして、子供には国立大学じゃないとだめだと言っておいて、自分が私立大学に入るとはどういうことだ」と文句を言われた。「二部は授業料が半額だから」と声も小さく言い訳した。わたしとしては、いいこと発見!英会話学校並の学費で英語を学ぶことが出来て、おまけに教養科目を学べる。その上、日本語教師の資格が取れるとうきうきして大学に通い始めた。ところが、英語の教科が大変だった。まず英文法がわからない、聴き取れない、書き取れない、のないないづくしで、勉強の方法すら分からない。本気でやばい学科を選択してしまったと後悔しても既におそし、社会人学生には学部の変更は許されていない。現役で入学したクラスメートに、勉強の方法を聞き、中・高校生の問題集を借り問題を解き、毎日解らないことを聞いていった。教師は外国人なので、質問しても細かい説明がわからず、わたしの教師は生徒だった。TOEICを受験しないと進級できず、受けたはいいが問題すら読めない。見当をつけてマークシートを塗りつぶすほかなかった。またもやクラスメートに、どうやって点数を上げるのか聞きまくり、かたっぱしから試していった。毎日、電子辞書を引く生活で読めないスペルにいらいらし、覚えの悪さに疲れ果てため息がでる。おもわず「コツはないの?コツは」と聞くと「あきらめないこと!」と言われた。

 そうか、あきらめちゃいけないのは山だけではなかった。考えると、母語である日本語は小学生の時から何年もかけて漢字や助詞の使い方を学んできた。英語を学ぶのに時間がかかって当たり前なのだ。いま始めたばかりですらすら英文が読めるわけがない。山だっていきなりエベレストに登れるわけがないし「登れるコツは?」と聞かれても順番に高度のある山をクリアしていくしかないのだ。なるほどと納得し、若いクラスメートに励まされながら学生生活を送っている。

豚の木
<豚もおだてりゃ木に登る>という木登り豚が好きだ。木登りしている豚を想像するとおかしいが、わたしも褒められるとすぐ「そお?」とその気になりガシャガシャと木に登る。そして、長い時間を浪費して挫折する。すぐ諦めればいいものをできない筈はないとけっこうしがみ付いているのが良くない。時間とお金を浪費するばかりで、一応学習することはするが、ほとぼりが醒めるとまた同じことを繰り返している。

それは、ピアノから始まった。ピアノを弾く隣人が指使いの手ほどきをしてくれた。「これからでも引けるようになる?」と聞いたら「もちろん、筋がいいわ」との答えに練習を始めた。「ピアノが欲しい」とヤマハに勤めていた友人に話すと。これからじゃ無理だからとエレクトーンを買わされた。まだ小さかった娘を抱いて音楽教室に通った。くる日も、くる日も同じ曲を弾き、和音の聴き取り,聴奏、アレンジ、作曲と五年間も努力した。自分の音楽的才能の無さに気が付かなかったといっていい。高価なエレクトーンと月謝、そしてへたな曲を聴かされ続けた家族が莫大な被害をこうむった。

次はスキーだった。道南の海辺で生まれ育ったのでスキーをしたことがなかった。旭川に住んで初めてスキーをした。農村で育った夫はスキーをしたことがあり、学生時代からスキーを楽しんでいたが、運動オンチのわたしは動いているリフトに乗るのが恐ろしかった。しかし子供に運動オンチが似たら困るのでそんな素振りは見せず家族スキーに出かけていた。 登別に転勤になり、夫が多忙になって運動オンチ親子は地元のスキー学校に入学した。その時、講師が「上背があるから、ゲレンデの花になるよ」と言ったのだ。彼は、高校の体育教師でもあり、スキーと水泳は運動神経の良し悪しに関係がないと言った。球技は敏捷性が必要だがスキーは滑る回数とセンスだという。即、美しいシュプールを描いて大斜面を滑降する自分のイメージが出来上がった。もう子供そっちのけで毎日のようにゲレンデに通い出した。スキーは学校に置きっぱなし、雨が降ろうが雪が降ろうがゼッケンをつけて頑張った。いつも派手に転倒しゲレンデのストリッパーと呼ばれた。転倒するとゴーグルも帽子、ストック、スキーまで脱げてしまい、ゲレンデを見上げ「拾ってきてー!」と叫んでいた。いつも褒められるは滑りかたではなく転び方で、ダイナミックで大変よいと言われた。

三シーズン目に全日本スキー連盟の二級に合格した。札幌に戻った時は藻岩市民スキー場の下に家を借りて子供たちとナイターに通った。しかし、わたしのスキーレベルは打ち止めでゲレンデの花になることはなかったのである。社会人山岳会に入って再びスキーを始めた。しかし、それはまったく別のスポーツのようだった。わたしが習っていたのは、いったい何だったか?と思うぐらい違うのである。北海道の冬山にはスキーが欠かせない。林道が多くアプローチが長いので雪に埋まらないためにも急峻のぎりぎりまでスキーを道具として使う。スキーのビンディングを踵が上がるタイプのものに取替え、板の裏側にナイロン製のシールを張り付け、交代で雪をラッセルしながら頂上をめざす。斜面が急になり、いよいよスキーが使えなくなってからアイゼンとピッケルに変える。<往きはよいよい、帰りが恐い>で登りは問題ないが下りが大変だ。スキー板の上に立っていられないのである。冬山用のプラスチック・ブーツは紐で結ぶだけなので固定されたゲレンデ・ブーツとは違い足首が不安定である。さらに背中にリックを背負っているのでバランスが取れない。わたしはスキー板の中央のいい位置に重心を乗せることが出来ず、前にのめったり後にひっくり返ったりで、転がってばかりだ。転ぶとリックを降ろさないと立ち上がれず、そのたびに体力を消耗する。滑リ降りるというより、雪まみれになり転がり落ちるようにしてふもとにたどり着いた。
かくしてわたしの滑り方は初歩の初歩、スキーをハの字に開く、ボーゲンのみとなった。こんなのは習わなくても誰だってできる。そんなレベルに戻ってしまった。
そして、今度は英語に取り組んでいる。最初のサハラ砂漠一人旅のとき、まったく英語を話せないわたしに、友人が「出発と到着の英単語とゲートナンバーを忘れないこと」とアドバイスをしてくれた。空港で<でっ発のディバーチャー><あっと到着、アライバル>と憶え飛行機に乗った。しかし、格安航空券は出発ゲートがころころ変り、ザック枕に寝ていてあわてることが度々あった。おまけに、飛行機が定時に飛ぶことがなく乗り継ぎが出来なくなり空港のカウンターで文句をいうことを覚えた。あやしい発音の英単語を並べ苦情を言っ
ているわたしに、外国のバックパッカーが同情して、「僕が中国を旅するようなものだね」と言った。言葉の必要性をひしひしと感じたが、旅が終るところりと忘れた。
ある時、スペインのバルセロナで高齢の一人旅の日本人男性に出会った。マヨルカ島へのフェリーの時間を見ていてナンパされランチをご馳走になった。彼はスペイン語のメニューをすらすら読み、アラッと思い見つめると、「英語のほかに、もうひとつ何か言語を始めると世界が広がりますよ」と軽く言った。彼は大学を退職してから、ドイツ語とチェロを習い始め、一人旅を始めて二十年になると話した。そして、音楽と言葉は人と人を結びつけると言った。確かに真実だろう。英語ぐらいはなんとかせねばと思った。山と仕事ばかりの暮らしを軌道修正して大学の英米文化学部に入学したが、さっぱりだった。辞書片手に四苦八苦していたところに、若い友人がこう言った。「声が低いから英語を話したら素敵だよ」と。モチベーションはバネが切れたように飛び上がった。空いた時間はすべて英語の勉強に費やした。自分に合った勉強の方法など知る由もなく、かたっぱしから試していった。記憶力の衰えを嘆いても始まらない。脳細胞のリハビリだと思えば我慢ができる。英語で聴いて、読んで書く。毎日、これを三ヶ月続けたら体が拒否反応を起こしてお腹が痛くなり夢にスペルが出てきた。大学で担当の英語講師の顔を見ると、トイレに行きたくなった。
つくづく英語の勉強は自分に合っていないのかもしれないと思うが、諦めてはいない。とりあえず卒業までは続けてみようと思っている。はたして、セクシーで素敵な英語を話せているだろうか。


                                    ひさすえまきこ

 
(#^.^#) 拙い文章ですが…、元気な気持ちが伝われば幸いです。 平成17年春
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"Dream is power ! "
 私は山登りをする以前、染め織りをしていました。羊毛を染めて紡ぎ、テキスタイルやクラフトを製作する。アトリエ兼居間で好きな音楽を聴きながら布を織る。手織りの布は、やわらかな時間と空気を吸い込んでふっくらと仕上がる。織りの題材や染料の草木を求めて野山を歩くうちに、だんだんと横道にそれていった。より遠くへ、より高みへと心が動いて、40歳にしてオフロードバイクで走り回り、山に登り、海を越え旅するバックパッカーになっていた。

 '95年の冬、十勝岳温泉の銀嶺荘で出会った人に、夏になったら究極の温泉に連れてってやると、トムラウシ川の地獄谷に誘われた。沢登りが何かも知らずに行った私は、崖をよじ登る、壁をへつる、足を上げるとひっくり返りそうな川の渡渉に驚いた。こんなに真剣になったことがなかった。岩をやるといいと言われ、その夏山岳会に入り岩登りを始めた。

 何もかもが、初めて経験する感覚だった。懸垂下降は、空飛ぶ夢が現実になったようで、なんとも爽快だった。冬、小樽の赤岩でのアイゼン訓練や十勝のカミホロカメットクのミックス登攀は、上から下からシャワーのように雪が降ってきて世界の果てに取り残されたような悲しい気分になった。極めつけはアイスクライミングで、冷たくて手は痛いし、氷に向かい『なんでこんなことせにゃならんの?』と頭が真っ白になった。海外の山に行ってはじめてそれらが全部繋がった。6000m以上の山には、クレパス、岩と雪のミックス、アイスも全部あり、すべての技術が必要になるのだ。ザイル、ピッケルは命を守る道具なのだということを身をもって知った。

 北米、南米、ネパールと海外の山に度々出かけるようになった。旅と山が一緒になり、海外はよりスパイスの効いた刺激的なものになった。山という空間は、大気を体で感じる爽快さがある。その感覚は触覚に近い。目に映る色彩や風の音、雪や岩の匂いそして土の感触を、頬や手や足の全身で感じ取っていく。山の雄大な映像とともに心が指揮する大地のシンフォニーを聴く想いだ。歩く速さは、木魚のリズムにも似てものを考えるのにちょうどいい。山行が終わるころには、心がすっきりし、そぎ落とされた自分が残る。

 その後、ひとり旅に出る。山をとりまく自然、文化、宗教などが土地々々で異なり、当然人々の暮らしも違ってくる。そんな人たちとの一期一会の出会いは、私に強い影響を与えた。ネパールの貧しいけれど人を思いやることの知っている人々。そしてアラスカの深い森のキャンプ場で心細くしていた時、自宅からランチを届けてくれた人のことは忘れられない。悪天候のマッキンリーで凍傷になり、手足の先の感覚がなかった。ジュノーの町はずれをザックを背におぼつかない足取りで歩いていると、車が止まってキャンプ場まで送ってくれた。森のキャンプ場は鬱蒼として暗い。もう雪山は見たくないのに見渡す山々には雪が残っていて心細く思っていたときに、車に乗せてくれた人が、温かいランチと飲み物を手に戻ってきた。厳しい自然に痛めつけられた心は、人の優しさに触れたことで、堰を切ったように涙が溢れた。

 私はこんなところで、何をしているんだろうと思った。どうして憑かれたように山ばかり登っているんだろう。翌日もヘインズへ向かうフエリーの中で考えていた。山岳ガイドをしているジョンを訪ねる船旅だった。ジョンはヘインズの町から、10キロほど離れた森の中に住んでいた。水彩画のアーチストでもあり、パートナーのシャロンは機織とビーズ細工をしている。二人は小さなギャラリーを開いていて、私はギャラリー上の、氷河の見える屋根裏部屋で猫のゴジラと一緒に昼寝をして過ごした。

 遊び相手は、近所に住む中学生のセーラだった。私たちは毎日ギャラリーの外壁につくられた人工壁でクライミングをしたり、木登りや木の幹を渡って、トラバースの練習をしたりしていた。

 ある時、公道の電気ボックスにペイントする大会があつた。セーラが漢字を書きたいと言うので「何の言葉がいい?」と聞くと「夢」と答えた。「なぜ?」とたたみかけると
<Dream is Power>という答が帰ってきた。すてきな言葉だと思った。そう、私はマッキンリーに登りたいと夢を追いかけてここに来たのだ。それも二度も。そもそもがひ弱な志にすぎなかった。自然の驚異のなかで、自分の弱さを見せつけられた。やり遂げる強い意志もなく簡単に諦めたのだ。

 私は、短いアラスカの夏を、ジョンや友人たちと過ごした。カヌーに乗って小さな島にイチゴ摘みに行ったり、出来上がったばかりのスモークサーモンと生ビールに舌鼓をうち、7月4日の独立記念日には鮭のちらし寿司を作った。温かな人たちと、穏やかに流れる時間のなかで私は自分を取り戻していった。そして、「Makiの夢はエベレストに登ること?」と聞かれたとき、「いいえ」と答えた心の中に8,000m峰にトライする夢が生まれていた。2000年夏のことである。

 指を立て、風はどっちから吹いてる?と確かめる感覚だけで夢に向かっている私は、たくさんの人の追い風に助けられている。山が山をよび人が人をよびよせ、七大陸最高峰へと繋がっていった。人との出会いが、山へと導いてくれたと思う。地球の七つの大陸のてっぺんに私の踏跡が残されている。登ったという事実が夢のようで、私ではなく誰か違う人のことのような気がする。地図を見たときにひそかに嬉しくなる。

 今、私は語学を学んでいる。旅をして英語の必要性を強く感じた。いつの日か自由にコミニケーションができるようになりたいと願う。そしていつも未知のことに心を躍らせ、好きなことに夢中になって暮らして生きたいと思う。本を読み想像をめぐらし、旅をして五感を使い、音楽で心を癒し、いくつになっても学ぶ喜びを持っていたいと思う。

 今年の冬は寒く長い。極寒の南極から戻って、こんなはずではなかったと恨めしく思っている。
しかし、職場に近い野幌の森は、日ごとに木々の冬芽がふくらんで春が近いことを告げている。
春よ来い!重いコートをスルリと脱ぎ捨て、萌黄色のスカートの裾をひるがえしてスキップしよう!
平成18年2月11日
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